中里実先生の『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より「財政と国家活動に関する1つの試論」という節(論文)。
はっきり言って自分の手には余る難しい本(けど憧れるし読みたい本)ですので、ところどころつまみ食いしつつ読んでいます。思いついたときに自分の進捗管理として読んだ部分ごとでブログに書いてみようかなと(部分完成基準)。
正直、内容は浅学な思いつきなのでお手柔らかに。
第一章から始めていないのは渕圭吾先生のアツいレビューに次の通り書いてあったからです。
本書においては、論文は緩やかな体系性に従って並び替えられているけれど、Kちゃんがこの本を読むときは、「初出一覧」と照らし合わせて、先生の思考の発展・変遷の過程を追うといい。
さて、本節「試論」は、文章そのものとしては本書の中では読みやすい部類かと思います。
私的経済部門の存在を前提としてそこから租税等の形で成果の一部を移転させ経済的資源の費消を行うのが国家の活動であるというごくシンプルな理論的モデルを念頭に、税収の不足が生じたら一体国家がどうなるのかについて、法的な文脈から、ある種の思考実験というか空想を広げることで財政と国家について「探りを入れる」ような内容となっています。
まずは大化の改新からの鎌倉幕府成立という歴史的事例を検討し、租税特別措置の拡大や租税回避の蔓延によって税収が不足すると公共財の提供が困難になり、やがて財産権を確保しようとするものが私的政府を打ち立てて租税を徴収し始めるという過程を抽出します。
そしてこれは日本の鎌倉幕府成立に特殊の過程とは「到底思えない」とし、現代の経済の国際化・金融化によって同じような現象が起きていると論じられます。
なるほどデジタル課税などが活発に議論される昨今の状況において、歴史的に同じような危機があった場合に社会がどのような変化を見せたのかを参照しつつ議論を行うのは立論としてはあり得るでしょう。*1
国家が財政的な危機に直面することでどのような問題が浮上するかについてはいくつか提起されていますが、個人的に興味深かったのは(1)私的経済部門の存在感が強まることに関する議論と(2)国家の意味に関する議論です。
前者の私的経済部門への依存については、公共財の概念を用いた議論が展開されます。要するに、公共財のようなものを提供する(私的)組織が現れるのではないかという指摘です。
公共財に関する財政学の初歩的な説明は「”みんなが使える”ものはみんながただ乗りしようとするから市場に任せておくと過少にしか供給されず、国家が供給しないと効率性が損なわれる(市場の失敗)」とするものですね。最近の租税法の教科書ではこの観点から租税の必要性を説明するものがあるイメージです(例えば増井先生の『租税法入門』)。
国防なんかは公共財の典型例とされます。中里先生は、例えば国家が治安維持に失敗した場合、私的な努力で身を守ろうとするだろうが、個々人で行うとコストがかかるとしつつ、しかしグループで共同的に費用を負担して治安を私的に消費しようとする者が現れるかもしれないと指摘されます。
自分ひとりだけで地域の治安を維持しようとするのはコストがかかりすぎますが、集団で負担すれば規模の経済が働いて便益がコストを上回るかもしれないからです。そうしたサービスを提供する企業が現れて規模が拡大すればそれは私的政府として国家類似の存在になるだろうというのがここでの議論です。
なるほど興味深い議論ですが、経済学の定義とすれば公共財は財の性質の問題であって、供給主体が公的部門でなければならないとははじめから言われていないはずです。
ハンディな教科書として手元にある佐藤主光先生の『財政学』(放送大学教育振興会2010)*2を参照してみると「はじめに公共財の定義は財の性質によるものであり、提供主体が政府だからではないことに注意してもらいたい(60頁)」と説明されています。
さらには中里先生が指摘しているような、規模の経済によって「コストが見合うようになる」現象もクラブ財という概念で説明されていて、地方自治体も「住民を会員とすれば、地方自治体も同じ公共財(サービス)を消費するクラブとみなせよう(74頁)」と論じられています。
会員が増えれば固定費を分散でき規模の経済が働きますが、増えすぎると混雑が起き会員一人受け入れることの限界的なコストが高くつきます。この限界的な費用と分担の一致するところがクラブの最適規模となります。
この地方自治体の理論と中里先生の仮説を組み合わせるといわば政府の自然発生を理論的に基礎づけることができ非常に面白いです。もっとも中里先生は混雑まで言っていませんし、供給主体の点も含め、公共財の理論に関して何かご自身独自の指摘をしていらっしゃるのか、クラブ財のような既にある議論を財政問題の法的な分析に援用できることを述べておられる趣旨なのか、自分にはよくわかりませんでした。
いずれにせよ、このような政府観は租税を民主主義の共同費用と捉える現代の民主主義的租税観と非常に相性がいいという意味でも興味深いです。もっともそれは「集団の共同費用」という捉え方においてであり、各自の損得勘定という点では租税配分の利益説に親和性を有すると思われ、この点が次の議論との絡みで気になります。
公共財を私的部門が供給する可能性を考えた場合に、国家にしかできないことは弱者救済ではないかと中里先生は述べられます。一般的には単に公共財を提供する夜警国家が最低限の政府でそれ以上手厚い福祉国家にするかどうかは意見が分かれる点とされますが、むしろ逆で「公共財は私的に供給できるけど弱者救済は国家にしかできない」というわけです。
この点はスティグリッツの教科書がけっこう丁寧に述べている点と併せて見ると面白いです。
スティグリッツは公共財が私的に供給されるケースについて次の通り述べます。
通常このときには、唯一の大規模な消費者がおり、彼の受ける直接的便益が非常に大きいため、自分だけでそれを供給しても得をするためである。(166頁)
そして大船主が灯台とブイを設置する例を挙げます。他の人もそれによって便益を受けられるとしても、大船主(それにしても馴染みのない例ですね)は自分にとって得だからそれを設置するし、逆に言えばもっとブイを設置すれば社会にとって得があるとしても、そんなのは知ったこっちゃないから設置しません。結局、公共財が私的に「ある程度」供給されても過少供給にはなると述べています。
そして次に考えるのは逆に「私的財が公的に供給される」場合です。繰り返しますが公的・私的というのは財の性質のこと*3ですから「私的財が公的に供給される」のは全く矛盾ではありません。スティグリッツは医療や教育がこの性格を持つことを整理した上で、割り当ての問題などを分析しています。
この「私的に供給される公共財」「公的に供給される私的財」の理屈と中里先生の「私的部門への依存」「国家の意味」を照らし合わせると、どうもここに国家の難しい部分がありそうだというイメージが浮かび上がってきます。
中里先生の指摘やクラブ財の理論の通り、費用の共同負担で共同体を作るのが損得勘定として「アリ」となればそうしたものは発生するのでしょう。しかしその量と内容は大きな便益を受ける一部の主体に依存する傾向が生まれるはずです。また、国家的なものだからこその役割を弱者救済と考えたとき、そうした社会保障は私的財の性格が強く、これはこれで供給や割り当ての問題は難しいしクラブ財的な損得勘定とはむしろ対極的なものなのではないかと思われます。この辺は租税の根拠と配分基準の議論に通じるところでしょうか。
書きながらまとめていったため気になった部分の乱雑なメモ程度の内容になってしまいました。また本書を読み進めながら色々考えていきたいと思います。