租税法の迷宮

とある税理士による租税法・税実務の勉強ノートです。

「財政法の私法的構成」『財政と金融の法的構成』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第2章第2節「財政法の私法的構成」。

 

 

 本節は憲法行政法の文脈で議論されがちな財政が「国民に対する国家の対外的な関係においては基本的に民法や商法により規律される法領域であるという点について、ヨーロッパの中世以来の伝統から説き起こして確認しようというもの」です(59頁)。

 民法959条という(私からすればマニアックな)条文において私法関係に国庫が登場すること、中世ヨーロッパにおいて封建的な領主権から租税類似のものが発生してきたことを素材に、現代の財政においても中世ヨーロッパ以来の私法的な性格が残ることが指摘されています。

 有名なガーンジー島事件(最高裁平成21年12月3日判決)についての「そもそもガーンジー島は近代的な意味の政府か」といった分析は非常に面白く、こうした検討の意義が感じられます。

 ただし素人としては、沿革として財政(租税)が私法的性格を持つとはいっても、現代では少なくとも形式的には(封建領主と小作人との権力関係ではなく)民主主義の下で議会を通じて租税法を定立する世界になっているわけで、私法的性格があること(ひいては私法関係の尊重)の強調はその意味での民主主義・議会の意義を没却することになりはしないのか? 歴史的経緯を持ち出すのであればその変革の意義こそ強調しなければならないのではないか? という素朴な疑問も湧くところではあります。*1

 租税法律主義の民主主義的な側面に注目すれば、議会意思を尊重した目的論的解釈も重要だという話も立論としてはあり得ます。*2そしてそうした発想がもし私法関係の尊重と衝突する局面が生まれた場合(例えば相互売買事件のような?)、解釈論の論拠として、「私法的性格が残っているし私法の尊重が大事なんだ」という議論と「しかし今の社会は封建制から変化し議会が租税を定めているのだからその目的意識を汲むことが大事だ」という議論では”当然に”前者が勝つのでしょうか。*3

 もちろん、頭の体操として疑問に思ったことをメモしているだけで、まさか中里先生の論考に対する指摘として成り立つとは思っておりませんので、引き続き勉強します。

 

*1:「Aは歴史的にXであった」ことは「Aは今も・これからもXである(べき)」ことを意味しないだろうという本当にごく素朴な意味での疑問です。持ち出すのに適切な例ではありませんが、ある人種の人々が歴史的に差別されてきたことはこれからも差別されて当然だという議論には繋がりません。

*2:もちろん中里先生は一般的否認規定は何も命じたことにはならないのではないかという立場ですし、政策的な二流の法である制定法に目的論的解釈も何もないという反論はあるのかもしれません。

*3:これに対して「租税法は侵害規範だから予測可能性が大切で、そのために厳格解釈が要求される」というよく聞く説明は歴史的な文脈からすると浅薄というかアドホックな印象もありますが論拠としての妥当性は支持しやすいように感じます。