租税法の迷宮

とある税理士による租税法・税実務の勉強ノートです。

税務における法的思考と会計的思考

税務実務は法的思考を尊重すべき

 税務の現場にいてよく思うのが、税理士の実務では簿記の仕訳で考える会計的な思考が強く、良くも悪くも法的な思考は前面に出てこないということです。

 これはそもそも税理士に法学部出身者が少なく、多くは経営学部・商学部出身であり、簿記検定から税理士の勉強に入って法学らしい議論に触れる機会がないまま予備校のテキストで税理士試験に受かっていくという背景があるかと思います。

 そうするとどうしても、例えば法人税の税務処理を検討する際には「この取引は仕訳ではどうなるか、仕訳のこの勘定科目の税務上の扱いはどうなるか」といった流れの議論になりやすくなります。

 しかし租税というのは根本的には憲法に定められた納税の義務に根ざすものであって、具体的な納税義務の内容も各税法に基づきます(租税法律主義、憲法30条・84条)。

 ほとんどの税理士にとって現実性のない想定ではありますが、税務処理が問題となって国税当局と争えば最終的には租税訴訟によって司法の判断を仰ぐことになり、これは完全に法的思考の世界です。 また近年、税務調査の現場でも「事実の認定・法の解釈・あてはめ」といういわゆる法的三段論法が重要視されているとも言われます。

 こういった背景から、税実務の現場ではもう少し法的な枠組みが尊重されるべきなのではないかと感じます。仕訳がどうなるというのではなくて、問題となっている条文は何で、どんな事実があって、どの要件を充足するのか、それによって生じる効果はなんなのか。こうした言葉遣いがもう少し大事にされるべきなのではないかと。

 私も御多分に洩れず簿記から税理士に入った人間ですが、資格を取るまでの途中で法学的な議論の面白さ・重要性を知り、今では法的な思考を大切にしています(しているつもりです)。

租税法学は会計的思考を尊重すべき

 他方で、逆に、租税法学者や司法は(法人税に関しては)もう少し会計的な実務を尊重すべきなのではないかとも思います。企業の税務処理自体は具体的な帳簿の記入によって成り立つわけですから、帳簿にどう起こすかという観点が欠落した抽象的な議論をしても取引社会を混乱させます。

  この問題を考える格好の素材が最高裁平成18年1月24日のいわゆるオウブンシャホールディング事件ではないでしょうか。この事件はご存じの通り、外国子会社が第三者割当増資によって著しく有利な価額でグループ会社に新株を発行して親会社の資産価値が減少したことが親会社と新株引受人との間の取引(法人税法22条にいう取引)とされた判決です。

 原審の東京高裁は法人税法22条2項の取引について「その文言及び規定における位置づけから、関係者間の意思の合致に基づいて生じた法的及び経済的な結果を把握する概念として用いられていると解せられ」るとし、最高裁は「この資産価値の移転は、上告人の支配の及ばない外的要因によって生じたものではなく、上告人において意図し、かつ、B社において了解したところが実現したものということができるから、法人税法22条2項にいう取引に当たるというべきである」としています。司法は、意図や意思の合致という私法的な契約観をベースに法人税法の「取引」を論じているように見受けられます。

 しかし子会社の新株発行というもの自体は親会社の帳簿としてみれば「仕訳なし」であって、簿記の意味での取引ではありません。何か物を引き渡したり契約書を切るわけでもありません(株主としての関与はありますが)。こんなものまで取引認定されてしまうと実務的には大変に混乱するというか法的安定性・予測可能性が揺るがされるわけです。

 といって、前述したように法人税法は法律ですから、法的に考えること自体は正しく、「簿記では仕訳なしなのだから取引認定はおかしい」という論法も根拠付けにおいては妥当とは言えません。この点については中里実先生の次の指摘が本質的かと思います。

引当金とか減価償却のような内部的なものであれば会計処理に従ってというのはわかります。しかし、内部取引ではない契約等に基づく市場性の取引について、経済的効果というは会計原則によって発生させられるわけではなくて、あくまでも商法に従って発生させられるわけですが、法人税法の議論などだと、特に会計の専門の方はそこを会計原則によって効果が発生するかのような、これはどっちが良いとか悪いとか言っているのではなくてメンタリティの問題なのですが、誤解があるような気がするのです(中里実・神田秀樹編『ビジネス・タックス』7頁(有斐閣2005))」

 

 

 たしかに会計というもの自体は経済的な事象の表現ですから、会計を決めてそれに基づいて法的な扱いを決めるというのはそういう理路ではないだろうと思います(会計的な描写がどうなるかが検討の参考となる場合はあろうかと思いますが、参考に過ぎないかと)。

 こういった文脈の中でか、特に東大系の研究者の先生方は、法人税法にいう「取引」を「法的な取引をいう」と説明する傾向にあるようです。結局、オウブンシャホールディング事件みたいな、言ってしまえば「不意打ち」もあり得るわけですから、実務家は法律家の考えることにも配慮しておかないと危険なのではないかという最初の話に戻ります。

 他方で、個人的にはオウブンシャホールディング事件の判決は言い過ぎで、法人税法の取引はあくまでも簿記上の取引をベースに解するべきと考えます。大淵博義先生などが指摘するように、取引を法的な取引と解すると火災損失などの当然に法人税法に取り込まれる損失と想定されるものが取引の枠から漏れてしまいますが、これは妥当ではなく、やはり法人税法にいう取引は会計的な取引を当然に想定していると考えるからです。

 金子宏先生の基本書もかつては「ここにいう取引は法的取引を意味すると解するべきである(金子宏『租税法〔第17版〕281頁(弘文堂2012)』)」とだけ書いていたのが現在では「この規定にいう取引は法的取引を意味していると解すべきであるが(…)オウブンシャホールディング事件に対する判決(…)は、取引の意義をそれよりも広く解し、子会社に対する支配力ないし影響力の行使をもそれに含めている。この判決が、どれだけの先例性をもっているかは別として、実際上は先例として適用されると思われるが、その場合にこの解釈を無条件に拡大して適用することには慎重でなければならないと考える(金子宏『租税法〔第22版〕323頁(弘文堂2017)』、太字は引用者)」と述べられています。同判決のロジックの適用には十分に慎重でなければならないということについては全く仰る通りだと思います。

 本記事で何か解釈論や税務に関して明確な指摘をしているわけではありませんが、ここまで述べてきたような部分でせめぎ合いつつ、税実務は法的思考に注意し、法律家は会計実務の実際を踏まえた上で法人税法の解釈をすべきと思います。