租税法の迷宮

とある税理士による租税法・税実務の勉強ノートです。

「貨幣制度と法」『財政と金融の法的構造』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第6章1節「貨幣制度と法―法・言語・貨幣のソフト・ローの観点からの共通性」。元論文はネット上でオープン(PDF)ですね。

 

 

 中里先生ご自身が最後に「とりとめもなく色々述べてきた」と書かれている通り、特定の仮説について順序立てて論証するというよりは租税の本質にある金銭について様々な角度から検討を行う内容となっています。

 租税は私的・市場的な分野から金銭を通じて公的・国家的な分野へ移るわけですが、ふたつの世界を繋ぐ媒介として、そして租税の定義そのものに含まれるのだから金銭についてちゃんと考えなきゃねという指摘はたしかにと思わされます。

 結論としては金銭は法や言語と共通性があり、「”みんなが使っているから”みんなが使っているものだ」という話になります。

 正直それだけだと「だからなんなんだ」と思ってしまいそうになりますが、本質は法として国家による承認があるから使われる無いから使われないのではなく、自生的・市場的なものなのだという点ではないでしょうか。公権力がそれをオーバーライドすることはできない。やや長くなってしまいますが下の引用部分は非常に面白いです。

法は法であるから拘束力を持つという考え方は、国家を前提とした公法的な発想であるが、先程述べたように、私は、これに対してやや懐疑的である。要するに、法について考える際にも、国家以前の存在を認めざるを得ないのではないか、法の拘束力は人々の合意によるのではないか、ということである。国家も革命で倒されることがある。要するに、人々の合意にはすべてを塗り替える力があるのではないか。だからこそ契約法は偉大なのではなかろうか。「合意は拘束する(pacta sunt servanda)」ということが法のすべてではないか。そして、この場合の合意は、倫理的なものというよりも、自生的に発生するという点で、市場的なものであると考えることが可能かもしれない。(258頁)

 このあたりの理解は普通法と制定法の解釈、あるいは租税立法といった問題に重要な示唆を与えるものであるように思います。この後に続く治安維持サービスや富士山頂の話も非常に示唆的。

 あとは「金銭に対して課税する意味」で論じられている金銭の取得は「消費『可能性』の取得の『可能性』」の取得である(261頁)とする点もこれまで考えたことがなく、大変に興味深いと思いました。