租税法の迷宮

とある税理士による租税法・税実務の勉強ノートです。

「財政制度と法の関わり」『財政と金融の法的構成』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第4章第1節「財政制度と法の関わり」。

 

 

 本節では財政の法的な検討として手続き的・行政法的な検討だけでは不十分で、実体法的・私法的な把握が大事だということで「国家活動の概念図」(165頁)などが提示されています。

 また国の私法的な権利義務が問題になる場合として「私企業の事故による得られるはずの税収が失われた場合に国は企業に私法上の損害賠償請求ができるか」という問題が議論されます。

 個人的に面白かったのは「専門家への委任」に関する記述で、金融は日銀に、司法は裁判所にという形で専門家集団への包括的な委任が行われているのに対して財政は憲法上国会の専権事項とされており、その効果としてポピュリズムに陥りやすいという指摘です(163頁)。

 本節では財政問題を経済・政治・法の観点から総合的に検討することの重要性が説かれますが、ちょっとしたことですがこうした財政の法的構造に関する指摘は経済学・政治学との相互反応を意識しやすいです。

「財政法と憲法・私法」『財政と金融の法的構成』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第4章第2節「財政法と憲法・私法―財政の法的統制」。元論文はフィナンシャル・レビューでオープン(PDF)です。

 

 

 本節は、財政に関する法的統制を考えるにあたって憲法や財政法の国家内部の手続きを考えるだけではなく、国家と国民との関係に横たわる私法的な見方も重要であるということを整理しています。

 その裏付けとして中世フランスの歴史を概観し、主権が私法的な財産権としての領主権から発展してきたことを確認します。結局、国家の主権とはいっても財産関係は依然として私法的な財産権によって把握されているのであって、そこにおける私法的視点は重要であると。

ここで留意しなければならない点は、国家や主権が財産権を作り出したのではなく、逆に、私的財産権としての性格を濃厚に有する領主権から国家や主権が生まれたという点である。(187頁)

 このような記述は中里史観・中里公法観の要諦ともいえるものでしょう。

 本節で示されている財政法研究の今後の方向性は非常にワクワクするものですね。

「財政法の私法的構成」『財政と金融の法的構成』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第2章第2節「財政法の私法的構成」。

 

 

 本節は憲法行政法の文脈で議論されがちな財政が「国民に対する国家の対外的な関係においては基本的に民法や商法により規律される法領域であるという点について、ヨーロッパの中世以来の伝統から説き起こして確認しようというもの」です(59頁)。

 民法959条という(私からすればマニアックな)条文において私法関係に国庫が登場すること、中世ヨーロッパにおいて封建的な領主権から租税類似のものが発生してきたことを素材に、現代の財政においても中世ヨーロッパ以来の私法的な性格が残ることが指摘されています。

 有名なガーンジー島事件(最高裁平成21年12月3日判決)についての「そもそもガーンジー島は近代的な意味の政府か」といった分析は非常に面白く、こうした検討の意義が感じられます。

 ただし素人としては、沿革として財政(租税)が私法的性格を持つとはいっても、現代では少なくとも形式的には(封建領主と小作人との権力関係ではなく)民主主義の下で議会を通じて租税法を定立する世界になっているわけで、私法的性格があること(ひいては私法関係の尊重)の強調はその意味での民主主義・議会の意義を没却することになりはしないのか? 歴史的経緯を持ち出すのであればその変革の意義こそ強調しなければならないのではないか? という素朴な疑問も湧くところではあります。*1

 租税法律主義の民主主義的な側面に注目すれば、議会意思を尊重した目的論的解釈も重要だという話も立論としてはあり得ます。*2そしてそうした発想がもし私法関係の尊重と衝突する局面が生まれた場合(例えば相互売買事件のような?)、解釈論の論拠として、「私法的性格が残っているし私法の尊重が大事なんだ」という議論と「しかし今の社会は封建制から変化し議会が租税を定めているのだからその目的意識を汲むことが大事だ」という議論では”当然に”前者が勝つのでしょうか。*3

 もちろん、頭の体操として疑問に思ったことをメモしているだけで、まさか中里先生の論考に対する指摘として成り立つとは思っておりませんので、引き続き勉強します。

 

*1:「Aは歴史的にXであった」ことは「Aは今も・これからもXである(べき)」ことを意味しないだろうという本当にごく素朴な意味での疑問です。持ち出すのに適切な例ではありませんが、ある人種の人々が歴史的に差別されてきたことはこれからも差別されて当然だという議論には繋がりません。

*2:もちろん中里先生は一般的否認規定は何も命じたことにはならないのではないかという立場ですし、政策的な二流の法である制定法に目的論的解釈も何もないという反論はあるのかもしれません。

*3:これに対して「租税法は侵害規範だから予測可能性が大切で、そのために厳格解釈が要求される」というよく聞く説明は歴史的な文脈からすると浅薄というかアドホックな印象もありますが論拠としての妥当性は支持しやすいように感じます。

「制定法と普通法」『財政と金融の法的構造』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より本日は第3章第1節「制定法と普通法」。

 

 

 元論文はジュリストの「制定法の解釈と普通法の発見―複数の方が併存・競合する場合の法の選択としての「租税法と私法」論(上)(下)」ですね。

 個人的には勝手に思い出深い論文です。学生時代、簿記から税務(法律)に入った身としては最初法律の解釈方法なんて「法学入門」みたいなタイトルの本を読んで「なるほど文理解釈と目的論的解釈かぁ」くらいに思っていたのですが、税大ジャーナルの中里先生の講演録*1 なんかを読んでいると「制定法と普通法は違って、民法の解釈手法で租税法を解釈するなんてとんでもない」なんて話が出てきて「えっ、そうなの?」と驚いたり。*2

 「法人課税の時空間(クロノトポス)」とかもそうですが、中里先生の使うフレーズとか理論ってなんとなくカッコイイじゃないですか。それで「制定法の解釈と普通法の発見」も図書館の書庫に潜ってコピーしていたんですが、税理士試験の勉強や自分の研究テーマの論文作成でなかなかじっくり読む時間が取れず、研究室のファイルに眠らせながらいつか大人になって落ち着いたら読もうと思っておりました。

 

 そして一応は今がその「いつか」ということで改めて本論文を読んでみました。

 内容としては、租税法の厳格解釈や借用概念論(統一説)の裏付けになる理論的・歴史的背景が叙述されています。

 民法のような普通法に対して租税法のような制定法は劣後するから、解釈はあくまでも厳格に、そして制定法の中に普通法の概念が出てきたら(明文の定めがない限り)普通法に従って解釈するのは当然であるというのが中里先生の主張です。

 金子宏先生は法的安定性・予測可能性などの機能的な観点から借用概念の統一説を展開されますが、これに別の角度からの論拠を与えるものですね。

 当然ですが税理士試験では全く習わないような内容であり非常に刺激的で面白いです。

 素人の素朴な疑問としては、議会の歴史的背景などはそれはそれでわかるとしても、その背景を現代の日本の租税法解釈適用論に当てはめることの妥当性・必然性はいまひとつよくわかりませんでした。

 広い世界の長い歴史の中で中世ヨーロッパの部分が天下り的に与えられたような印象があり、少なくとも形式的には民法も租税法も議会の制定法である日本においてそうした文脈が(抽象論としてではなく)具体的な解釈論の方向を決定付ける正当性というか、そのあたりについて議会の歴史や「法曹の態度」だけで説明ができるのかどうなのか。

 法制史などの基礎法学を学ばれた方々には説明するまでもない当然のことなのかもしれませんが、租税法学界で当然には認識されていることではないから中里先生もわざわざ論文を書かれているわけですよね。このあたりはまだまだ勉強しなければと思いました。

 

*1:中里実「フランスにおける流通税の歴史」(税大ジャーナル2009)https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/kenkyu/backnumber/journal/11/pdf/11_01.pdf

*2:この文脈での制定法・普通法という用語法は現代の日本の法学においてどの程度一般的なのでしょうか。手元の教科書類やインターネットを検索してもあまり見ません。

「貨幣制度と法」『財政と金融の法的構造』

 中里実『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より、本日は第6章1節「貨幣制度と法―法・言語・貨幣のソフト・ローの観点からの共通性」。元論文はネット上でオープン(PDF)ですね。

 

 

 中里先生ご自身が最後に「とりとめもなく色々述べてきた」と書かれている通り、特定の仮説について順序立てて論証するというよりは租税の本質にある金銭について様々な角度から検討を行う内容となっています。

 租税は私的・市場的な分野から金銭を通じて公的・国家的な分野へ移るわけですが、ふたつの世界を繋ぐ媒介として、そして租税の定義そのものに含まれるのだから金銭についてちゃんと考えなきゃねという指摘はたしかにと思わされます。

 結論としては金銭は法や言語と共通性があり、「”みんなが使っているから”みんなが使っているものだ」という話になります。

 正直それだけだと「だからなんなんだ」と思ってしまいそうになりますが、本質は法として国家による承認があるから使われる無いから使われないのではなく、自生的・市場的なものなのだという点ではないでしょうか。公権力がそれをオーバーライドすることはできない。やや長くなってしまいますが下の引用部分は非常に面白いです。

法は法であるから拘束力を持つという考え方は、国家を前提とした公法的な発想であるが、先程述べたように、私は、これに対してやや懐疑的である。要するに、法について考える際にも、国家以前の存在を認めざるを得ないのではないか、法の拘束力は人々の合意によるのではないか、ということである。国家も革命で倒されることがある。要するに、人々の合意にはすべてを塗り替える力があるのではないか。だからこそ契約法は偉大なのではなかろうか。「合意は拘束する(pacta sunt servanda)」ということが法のすべてではないか。そして、この場合の合意は、倫理的なものというよりも、自生的に発生するという点で、市場的なものであると考えることが可能かもしれない。(258頁)

 このあたりの理解は普通法と制定法の解釈、あるいは租税立法といった問題に重要な示唆を与えるものであるように思います。この後に続く治安維持サービスや富士山頂の話も非常に示唆的。

 あとは「金銭に対して課税する意味」で論じられている金銭の取得は「消費『可能性』の取得の『可能性』」の取得である(261頁)とする点もこれまで考えたことがなく、大変に興味深いと思いました。

「財政と国家活動に関する1つの試論」『財政と金融の法的構造』

 中里実先生の『財政と金融の法的構造』(有斐閣2018)より「財政と国家活動に関する1つの試論」という節(論文)。

 

 

 はっきり言って自分の手には余る難しい本(けど憧れるし読みたい本)ですので、ところどころつまみ食いしつつ読んでいます。思いついたときに自分の進捗管理として読んだ部分ごとでブログに書いてみようかなと(部分完成基準)。

 正直、内容は浅学な思いつきなのでお手柔らかに。

 第一章から始めていないのは渕圭吾先生のアツいレビューに次の通り書いてあったからです。

本書においては、論文は緩やかな体系性に従って並び替えられているけれど、Kちゃんがこの本を読むときは、「初出一覧」と照らし合わせて、先生の思考の発展・変遷の過程を追うといい。

 

 さて、本節「試論」は、文章そのものとしては本書の中では読みやすい部類かと思います。

 私的経済部門の存在を前提としてそこから租税等の形で成果の一部を移転させ経済的資源の費消を行うのが国家の活動であるというごくシンプルな理論的モデルを念頭に、税収の不足が生じたら一体国家がどうなるのかについて、法的な文脈から、ある種の思考実験というか空想を広げることで財政と国家について「探りを入れる」ような内容となっています。

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 まずは大化の改新からの鎌倉幕府成立という歴史的事例を検討し、租税特別措置の拡大や租税回避の蔓延によって税収が不足すると公共財の提供が困難になり、やがて財産権を確保しようとするものが私的政府を打ち立てて租税を徴収し始めるという過程を抽出します。

 そしてこれは日本の鎌倉幕府成立に特殊の過程とは「到底思えない」とし、現代の経済の国際化・金融化によって同じような現象が起きていると論じられます。

 なるほどデジタル課税などが活発に議論される昨今の状況において、歴史的に同じような危機があった場合に社会がどのような変化を見せたのかを参照しつつ議論を行うのは立論としてはあり得るでしょう。*1

 

 国家が財政的な危機に直面することでどのような問題が浮上するかについてはいくつか提起されていますが、個人的に興味深かったのは(1)私的経済部門の存在感が強まることに関する議論と(2)国家の意味に関する議論です。

 前者の私的経済部門への依存については、公共財の概念を用いた議論が展開されます。要するに、公共財のようなものを提供する(私的)組織が現れるのではないかという指摘です。

 公共財に関する財政学の初歩的な説明は「”みんなが使える”ものはみんながただ乗りしようとするから市場に任せておくと過少にしか供給されず、国家が供給しないと効率性が損なわれる(市場の失敗)」とするものですね。最近の租税法の教科書ではこの観点から租税の必要性を説明するものがあるイメージです(例えば増井先生の『租税法入門』)。

 

 

 国防なんかは公共財の典型例とされます。中里先生は、例えば国家が治安維持に失敗した場合、私的な努力で身を守ろうとするだろうが、個々人で行うとコストがかかるとしつつ、しかしグループで共同的に費用を負担して治安を私的に消費しようとする者が現れるかもしれないと指摘されます。

 自分ひとりだけで地域の治安を維持しようとするのはコストがかかりすぎますが、集団で負担すれば規模の経済が働いて便益がコストを上回るかもしれないからです。そうしたサービスを提供する企業が現れて規模が拡大すればそれは私的政府として国家類似の存在になるだろうというのがここでの議論です。

 なるほど興味深い議論ですが、経済学の定義とすれば公共財は財の性質の問題であって、供給主体が公的部門でなければならないとははじめから言われていないはずです。

 ハンディな教科書として手元にある佐藤主光先生の『財政学』(放送大学教育振興会2010)*2を参照してみると「はじめに公共財の定義は財の性質によるものであり、提供主体が政府だからではないことに注意してもらいたい(60頁)」と説明されています。

 

 さらには中里先生が指摘しているような、規模の経済によって「コストが見合うようになる」現象もクラブ財という概念で説明されていて、地方自治体も「住民を会員とすれば、地方自治体も同じ公共財(サービス)を消費するクラブとみなせよう(74頁)」と論じられています。

 会員が増えれば固定費を分散でき規模の経済が働きますが、増えすぎると混雑が起き会員一人受け入れることの限界的なコストが高くつきます。この限界的な費用と分担の一致するところがクラブの最適規模となります。

 この地方自治体の理論と中里先生の仮説を組み合わせるといわば政府の自然発生を理論的に基礎づけることができ非常に面白いです。もっとも中里先生は混雑まで言っていませんし、供給主体の点も含め、公共財の理論に関して何かご自身独自の指摘をしていらっしゃるのか、クラブ財のような既にある議論を財政問題の法的な分析に援用できることを述べておられる趣旨なのか、自分にはよくわかりませんでした。

 いずれにせよ、このような政府観は租税を民主主義の共同費用と捉える現代の民主主義的租税観と非常に相性がいいという意味でも興味深いです。もっともそれは「集団の共同費用」という捉え方においてであり、各自の損得勘定という点では租税配分の利益説に親和性を有すると思われ、この点が次の議論との絡みで気になります。

 

 公共財を私的部門が供給する可能性を考えた場合に、国家にしかできないことは弱者救済ではないかと中里先生は述べられます。一般的には単に公共財を提供する夜警国家が最低限の政府でそれ以上手厚い福祉国家にするかどうかは意見が分かれる点とされますが、むしろ逆で「公共財は私的に供給できるけど弱者救済は国家にしかできない」というわけです。

 この点はスティグリッツの教科書がけっこう丁寧に述べている点と併せて見ると面白いです。

 

 スティグリッツは公共財が私的に供給されるケースについて次の通り述べます。

通常このときには、唯一の大規模な消費者がおり、彼の受ける直接的便益が非常に大きいため、自分だけでそれを供給しても得をするためである。(166頁)

 そして大船主が灯台とブイを設置する例を挙げます。他の人もそれによって便益を受けられるとしても、大船主(それにしても馴染みのない例ですね)は自分にとって得だからそれを設置するし、逆に言えばもっとブイを設置すれば社会にとって得があるとしても、そんなのは知ったこっちゃないから設置しません。結局、公共財が私的に「ある程度」供給されても過少供給にはなると述べています。

 そして次に考えるのは逆に「私的財が公的に供給される」場合です。繰り返しますが公的・私的というのは財の性質のこと*3ですから「私的財が公的に供給される」のは全く矛盾ではありません。スティグリッツは医療や教育がこの性格を持つことを整理した上で、割り当ての問題などを分析しています。

 この「私的に供給される公共財」「公的に供給される私的財」の理屈と中里先生の「私的部門への依存」「国家の意味」を照らし合わせると、どうもここに国家の難しい部分がありそうだというイメージが浮かび上がってきます。

 中里先生の指摘やクラブ財の理論の通り、費用の共同負担で共同体を作るのが損得勘定として「アリ」となればそうしたものは発生するのでしょう。しかしその量と内容は大きな便益を受ける一部の主体に依存する傾向が生まれるはずです。また、国家的なものだからこその役割を弱者救済と考えたとき、そうした社会保障私的財の性格が強く、これはこれで供給や割り当ての問題は難しいしクラブ財的な損得勘定とはむしろ対極的なものなのではないかと思われます。この辺は租税の根拠と配分基準の議論に通じるところでしょうか。

 

 書きながらまとめていったため気になった部分の乱雑なメモ程度の内容になってしまいました。また本書を読み進めながら色々考えていきたいと思います。

 

*1:正直時代が違うので現実感が湧きませんしこのような議論を行う実益はよくわかりませんが、どちらかというと、昨今の具体的な課税逃れ問題で議論を終わらせずに通史的に見て同じ整理ができる普遍的な理論モデルだと言うことに意味があるように感じました。

*2:コンパクトながら他の財政学の教科書で言語化されていないような思考の要点が色々書かれていて面白い本だと思っています。

*3:細かく言うと誰かが消費しても他の人も消費でき(非競合性)、また他の人の消費を排除できない(非排除性)財のこと。

〔書籍〕『プログレッシブ税務会計論Ⅲ』

 酒井克彦『プログレッシブ税務会計論Ⅲ』(中央経済社2019)。こちらもやっと通しで読みました。

 

 本書では法人税法22条4項の「公正処理基準」に焦点を当て、種々の議論が展開されています。

 第一章はまさに「法人税法22条4項における公正処理基準」と題して同条項の解釈を真っ向から論じています。最高裁判例や学説の検討を通じて、これを単なる「確認的規定」としては説明ができないといった趣旨の指摘がなされます。

 第二章は「公正処理基準該当性の判断アプローチ」。任意の会計処理の基準が22条4項にいう公正処理基準に該当するか否かについてどのようなアプローチが考えられるのかについてです。

 ここでは慣行該当性アプローチという事実解明的な視点と基準内容アプローチという規範的な視点の二重の基準を提唱しつつも、法人税法の趣旨目的(適正課税)を過度に強調することは租税法律主義の観点から危険であるとの冷静な解釈論が展開されています。

 第三章で慣習、第四章で別段の定めの位置付けの整理があったあと、個人的に新鮮だったのが第五章の「中小企業会計法人税法22条4項」。私自身日頃中小企業の実務を行っている税理士でありながら意外と掘り下げたことがなかった整理がされています。中小企業会計指針や基本要領が公正処理基準に該当するかについてなど。

 損金経理要件などを通じて法人税法の規定が会計に影響を与えてしまう「逆基準性」がよく指摘されますが、法人税法の規定に従った計算に比重を置く中小企業の会計慣行が「基準内容アプローチを無試験で合格したことを意味しているといってもよいように思われる(137頁)」という面白い指摘もなされています。

 つい「講学上の解釈論は解釈論、実務は実務」と無意識に区別してしまっている部分もありますが講学的な解釈論と実務との関りを常に意識していたいところです。

 そしてホットなトピックとして、第六章「『収益認識に関する会計基準』と法人税法」には本書のほぼ半分のページ数が割かれています。ここでは新たに設定された収益認識に関する会計基準法人税法との関係、同基準の公表に伴って改正された法人税法22条の2周りの解釈論が検討されます。

 このあたり、私としては通り一遍の解説を読んだだけで踏み込んだ解釈の検討ができていなかったため勉強になりました。特に同改正に伴って法人税法22条4項に「別段の定めをあるものを除き」という文言が追加されたことの重要性を見過ごしておりました。

 本書によれば「22条の2は22条2項の別段の定めか22条4項の別段の定めか」という問題があり、22条4項の別段の定めと考えるなら22条4項では「次条によるものを除き」とすればよかったのではないかとの反論、22条2項と22条4項両方の別段の定めと捉えるならそもそも22条4項に別段の定めによるものを除くと書く必要があったのかという指摘がそれぞれあり得るとされています。

 このあたりは酒井先生の議論を参考に前提を整理しつつ、今後の学説の蓄積を待ちたいところです(というよりもう出ているのでしょうから論文を検索してみたいと思います)。それにしても、建付けという意味ではシンプルな形をしていた22条が随分ややこしくなったなぁという印象です。法人税法の基本規定であることに変わりはありませんから、実務家としては理解しておかないわけにはいかないでしょう。

 

 

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